ジョン・エヴァレット・ミレイ

ベアタ・ベアトリクス(Beata Beatrix)

お前もかっ?!ジョン・エヴァレット・ミレイ!!

イングランド南部のサザンプトンにある馬具製造販売業者の裕福な家の息子として生まれました。子供の頃からだが弱かったこともあり、母親に勉強を教わる中で絵の才能があると見抜いた両親は、本格的な絵の勉強をさせるためにロンドンへ引っ越すこととなります。するとミレイはロイヤル・アカデミーに史上最年少の11歳で入学することとなるのです。さすが、天才は違います・・。

もちろん、入学後も注目を集め、19歳の時に「ラファエル前派」を結成することになるのです。このラファエル前派はアカデミーの創設者のサー・ジョシュア・レノルズが100年も前に確立した教育方法に対する不満や、当時の画壇への反発が主となって結成されたわけですから、どちらかといえば「問題児」的な存在、何をやっても非難の的・・。そんな時に強力なサポートをしてくれたのが思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキンだったのです。

彼は「芸術は自然に忠実でなければならない」という主張のもと、マスコミの攻撃にはタイムズ紙上でラファエル前派を擁護する論陣を張り、後押しをしてくれたのです。また、1852年のロイヤル・アカデミー展に出品された「オフィーリア」が高い評価を獲得するなど、次第に認められていきました。

ミレイは、ジョン・ラスキン、その妻のユーフィミアとの親交を深めていきます。ユーフィミアをモデルとした『除隊』、『ジョン・ラスキンの肖像』などの作品はそれをあらわしています。ここでラファエル前派お決まりのゴシップ!

ジョン・ラスキンの妻であるにも関わらず、ユーフィミアはミレイに惹かれていきます。そして1854年、ユーフィミアはラスキンとの結婚は実質の無いものであったとする婚姻無効の訴訟を起こすまでにいたるのです・・。1855年、ミレイとユーフィミアは結婚できることとなりましたが、当時は妻が夫を捨てるような事は恥ずべき行動との概念がありましたから、ユーフィミアは非難をあびることとなり、その夫となったミレイも寵愛されていたヴィクトリア女王の肖像画を描くことができなくなったといわれています。その後、1856年、『落ち葉』などのメランコリックな特定の主題のない作品を制作しだした頃から画商やコレクターからの評価が下がるようになっていき、、1857年のロイヤル・アカデミー展で発表した『浅瀬を渡るイザンブラス卿』でそれは決定的なものとなったのです。「馬が騎士に比べて大きすぎる」という点から不評を買い、カリカチュアが新聞に掲載され、中傷の的となってしまったのです。このときから、妻をとられてもミレイを擁護してきたラスキンまでも、厳しい非難をしたそうです・・。これがきっかけとなって、ラファエル前派から徐々に離れていきました・・。

まぁ、最後は「肖像画家」としての成功をおさめ、1896年、ロイヤル・アカデミーの会長に選出され、いろいろなものを取り返した上でその8月に他界することとなるのです。亡くなる数日前にはヴィクトリア女王から「何か出来ることはないか」という伝言を受け、ずっと拒否されつづけてきた妻ユーフィミアの謁見を許可してほしいと願いでたそうです。それも認められ、ユーフィミアはミレイの後を追うように12月に亡くなります。波乱万丈ではあったものの、思うように生きた幸せな芸術家であったのかもしれませんね。

このミレイの「オフィーリア」は、日本の文壇にも影響を与えているのです。夏目漱石の「草枕」です。

しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。

夏目漱石は1900年に文部省の留学生としてイギリス・ロンドンに留学の際、エヴァレット・ミレイのオフィーリアを実際に観ているそうです。そしてその三年後に精神を病み帰国。その影響を大きく受けて書いたのが「草枕」といわれています。

精神的にまいっていた時期に出会ったミレイのオフィーリアは、漱石にとってどのような役割りをはたしたのでしょうか・・。

気になる方は、草枕をもう一度読み返してみてください。

多くの画家達が描いているオフィーリアですが、日本では夏目漱石が文学の中で引用し、それを日本画家の山本丘人が「草枕絵巻」で「水の上のオフェリア」という作品に描いています。(これは「那美さん」なんですよね・・。)